全ての事象には必ず停滞は付きものである。
常に推進力全開、面舵一杯「野郎ども!!着いてきやがれ!!」みたいな無敵状態が訪れたとしても、思いも寄らない嵐や得体の知れない疫病、小指を何かしらの角ばった部分にぶつけるなどなど、少し「あれれ?」と立ち止まらざるを得ないタイミングは来る。
その時に如何様な心持ちで居られるかが、とても大事だなと思う。
停滞をすると、まず愚痴が出る。何かのせいにしたくなる。
糸を投げずとも垂らしていれば入れ食い状態だった頃の興奮は、いずれ慣れをもたらし
少し間が開けば、精神に歪みが生じオーバースローを少し下げスリークオーター気味に変えてみたりする。
そりゃ魚達も常に飯時ではなく、キラキラした水面を眺めながら漂ったり、魚なりの魚関係を築いたり、本を読んだりしたくもなる。
流れは常に一方向には進んでいないのだ。大海原。
それに気づかずどんどん肘は下がっていき、気づけばソフトボーラーの様な地を這うキャストをしてしまっている彼のジグは距離を程なく無くし、ポチャリとハリの無い音と共に緩やかに沈んでいく。
気づけば、その目線は足元ばかり気にしてしまう様になってしまった。
「靴下、穴空いてんじゃん。。」と靴を履き忘れた事に気付いてしまう。
靴を履く事を忘れるくらいには彼は、没頭していた。
没頭していても構わないのだ。日が落ちて帰る時に気づいたのであれば笑い話で済んだと思う。
しかし、タイミングの悪い事にこの停滞のタイミングで気づいてしまった。
さぁ大変だ。恥ずかしい、阿呆だ、爪伸びすぎや。などと自分の至らなさに打ちのめされて大海原どころではない。自分のつま先に釘付けだ。
地面の鋭利さを酷く感じてしまい、踏ん張るには判断が必要となってくる。
無垢に走り回っている頃は、それすらも快感に近いアドレナリンやセロトニンが穴という穴から放出されていたから、なんなら少し浮いていたかもしれない。
全ての事象には必ず停滞は付きものである。
焦ってジタバタしたら沈んでしまう。溺れてしまう。
自分の至らなさによる内部の停滞もあれば、外部の停滞もある。
終着と見誤ってしまうかもしれないが、幾重にも重なった渦の中を泳いでいるのだから、直線では進めないのだ。
その時に如何様な心持ちで居られるか。
爪を切ればいい。靴を履けばいい。
そこで「なんでやねん」と俯くではなく
「なんでやねん」と軽快にツッコんでやればいい。
俯いていながらでも、歩は進められるぞ。
でも時々、前を確認しなければ目的地には辿り着けないぞ。
立ち止まるも私ぞ。這ってでも進むのも私ぞ。
まずは思い切り腕を振ってカジキでも狙ってみなさい。